人間力の基礎を育てた三年間
昭和32年 工業化学科卒 山崎 礼子
昭和32年 工業化学科卒 山崎 礼子
今から64 年も前に卒業した下松工業高校の生活!それは、数え切れないほどの思い出に満ちた3年間でした。志望した理由は、理数科目が好きだったことと、将来はその方向で働きたいと考えていたことの二つでした。当時は機械科・工業化学科の2学科があり、女生徒20 名は化学科1クラスに編成されました。ほぼ男子校の状態でしたが、幼い頃から男の子に交じって遊び、お転婆だった私は特に性別を意識することもなく、昼休みに、上級生に交じって男女の隔てなくバスケットで遊んだ記憶もあります。入学して暫くは、ほとんど毎日、強制的に昼休みの校庭スタンドで校歌と応援歌の練習があり、応援団の上級生からしごかれたことも忘れられない思い出です。
課外活動は映画研究会と弓道部に入りました。当時、生徒は学校が許可した映画しか見ることができませんでした。その許可映画を推薦する役割を与えられていた映画研究会の入会に際しては、顧問の先生お二人との面接がありました。「映報」という新聞も発行されており、その記事を書くためにも週に1回は映画館に通いましたが、幸い会員証のお陰で入館料は免除されていました。
弓道部では、弓道八節の型と静かな諸動作、集中力を身につけるために練習は厳しく、心身統一が求められました。早朝の寒稽古は特に辛く、素足で道場に正座することはきつい修行でしたが、ビーンとしたその空気は魅力的でもありました。そんなある朝登校すると、冷たい静寂の中に朗々とした謡が聞こえて来ました。声の主は宿直の先生であったと後で知りましたが、今でも一つの景色として鮮やかに思い出されます。戦後、GHQ によって禁止されていた日本の武道が解禁されて、中央大学弓道場で「第1回全国高校弓道大会」が開かれました。幸いにも県代表の3名編成女子チームとして出場することができましたが、惜しくも団体3位でした。ずらりと居並ぶ高段者の前で一人ずつ弓を射る試合や昇段試験の経験は、どんな場面にも臆することなく向き合える心の強さを養ったと思います。
高校2年の夏、両親が九州に転居することになりました。転校したくないと担任の先生に相談しましたが、女生徒の下宿生活は前例がないと言われ、校長の太田先生に直接訴え、数日後にお許しを頂きました。この下宿生活も成長の糧になったと思います。
もう一つ得難い思い出があります。それは、学校創立のための資金を寄付された久原房之助翁が来校された時、生徒代表として花束贈呈をしたことです。あまりの晴れがましさと気恥ずかしさで頭が真っ白になった私でした。
厳しくも温い校風の中で存分に過ごせた3年間は、私を育ててくれた掛替えのない日々であったと思います。