卒業生メッセージ

人間力の基礎を育てた三年間
昭和32年 工業化学科卒 山崎 礼子
青春三年間下工時代思出の記
昭和33年 機械科卒 田中 秀夫
許されない誤った英雄主義
昭和42年 機械科卒 土谷 康夫
昭和46年、下工教育が原点だった
昭和49年 電気科卒 重永 裕祥
私の高校時代
昭和54年 機械科卒 中村 明夫

青春三年間下工時代思出の記

昭和33年 機械科卒 田中 秀夫

 私の入学は終戦後10 年目に当る昭和30 年の春でした。世は未だ厳しい環境にあり、旧校舎は正面からは大変立派で威厳がありましたが一歩中に入ると足元はガラクタとなっておりました。

 私はM2組でクラスメイト42名、3年間組替えもなく苦楽を共にしました。地元中学出身者は少なく、大島郡、柳井、田布施、光方面の汽車通の生徒が多く、通学時は駅前から相生町、本町、中市、西市、大海町と下工生徒の波でした。卒業迄の3年間は旧校舎で過し、卒業と同時に鉄筋のスマートな校舎の一部が落成し、新校舎を横目にしながらの卒業でした。今となっては古きオンボロ校舎最後の卒業生となったことが誇りに思えます。

 入学と同時に始まったスタンド集合は、校歌、応援歌、拍手の練習で、昼食は5分間、スタンドへの遅れは許されません。先輩の良き指導?には震えたものです。当時の母校はスポーツも盛んで入学時はハンドボール部の全盛期、国体準優勝に輝き全校挙げての応援でした。又、野球、柔道、剣道、女子弓道等々県下に名を馳せておりました。

 私は柔道部に入り新1年生40名、総勢60名の大世帯でした。広中、景山両先生の熱血指導、朝稽古、寒稽古に明け暮れ、卒業時には二段の免許を手にすることができました。3年秋の県体では徳山商業高校に3対2で破れ、ベスト8進出を逃した悔しい思いが今でも忘れることができません。卒業3年後には後輩が宿敵多々良高校を倒し、初めて県体優勝し県下制覇を成しとげてくれ、胸のつかえを降ろしてくれました。

 3年生になると応援団長として、スタンド集合、運動会、野球部応援と大役を任されました。特に夏の野球大会では周防地区予選で勝ち進み県決勝大会は下関球場でした。当時県下No.1 のスラッガー山根(卒業後中日球団へ)、ピッチャー守野、キャッチャー渡辺の好バッテリー。応援団も早朝よりバスで必死の応援でしたが、萩商業高校に惜敗いたしました。以来61 年間、甲子園への夢が果たされておりません。母校野球部の後輩の皆様方是非卒業生全員の願望を叶えて下さい。

 その他いくつもの思い出があります。名物運動会での仮装野外劇、M 対C の応援合戦、3学期の予餞会の寸劇、弁論大会等々枚挙に暇がありません。クラスメイトとは卒業後も永いつきあいを続けております。平成元年に「傘寿の会」を最後として笠戸島大城で開きました。既に13 名が鬼籍に入っており、参加者は11名でした。遠くは横浜、奈良からも出席され1泊して昔話しに花が咲きました。中でも夜廻り(夜警)が話題となりました。柔道場の横にあったさびれた夜警室(小屋)で一夜を明かし校舎の見廻りです。5名1班で夜食を作り一夜を共にします。翌日の授業は居眠りも先生からのお咎めはありませんでした。夜警は青春の大きな終生の絆となりました。

 終りに何と云っても太田胤正校長先生にふれたいと思います。在校3年間「愛と正義」を校是として「技術屋になる前に人間になれ」と何回も聞かされました。講話はいつも真面目で先生の頭はいつも七三に分け口髭がトレードマークでした。小柄でしたが威風堂々とされて威厳のあるお姿が瞼に浮かびます。

 在校3年間太田校長の元で鍛えられお陰様で生徒の不祥事は無かったと思っております。私の卒業後の人生においても校長先生から薫陶を受けた賜ものと感謝いたしております。