卒業生メッセージ

人間力の基礎を育てた三年間
昭和32年 工業化学科卒 山崎 礼子
青春三年間下工時代思出の記
昭和33年 機械科卒 田中 秀夫
許されない誤った英雄主義
昭和42年 機械科卒 土谷 康夫
昭和46年、下工教育が原点だった
昭和49年 電気科卒 重永 裕祥
私の高校時代
昭和54年 機械科卒 中村 明夫

私の高校時代

昭和54年 機械科卒 中村 明夫

 1973年から世界を揺るがす「オイルショック」が起こります。その後数年間狂乱物価や景気後退で、新卒の求人数が底をついたのが昭和53年でした。その時の高校3年生だった私たちは、当時の進路指導部長の先生から「今年は、全盛期の10分の1しか求人が来ていない。もたもたしていたら君たちは行くところがなくなるぞ。」と脅かされていました。今よりは当時のほうが進学率は高かったものの、卒業時の学校新聞に、進路先として学校名や会社名でなく「進学」と書かれた人がたくさんいました(要するに進路先が未定だった人)。各クラス計15人くらい進学、もしくは進学に変更した人がいました。

 そんな時代のなかソフトテニス部(当時は軟式庭球部)は、県高校総体団体優勝(2 連覇)~団体の部で中国大会2位、インターハイベスト16入り。個人の部で4ペアが中国大会へ、さらに2ペアがインターハイ出場を果たし、そのうちの1組は国体まで出場しました。厳しい練習や、厳しい先輩?のおかげで、同級生は半分以上辞めて6人へ、一級下はほとんど辞めて2人。合計8人(全員団体メンバー)で2年の秋から次の春までの練習をしていきました。当時の監督“河野啓示”大先生の前衛としてペアを組み、レギュラー陣3組と3試合ずつの9試合を、その後自分のペアーと組んでもう一周。私だけが12試合連続で試合をした事をよく覚えています。いくら若かったとはいえ、昼食もとらずに良くもそんなに試合が出来ていたものだとつくづく思います。私の高校時代は、そんなテニス漬けの毎日でした。他にはハンドボール部が国体3位、2年時には野球部が会長旗大会優勝、(3年の夏は津田恒美の南陽工業が優勝)登山部がインターハイ出場、柔道部や、弓道部も中国大会へ出場するなど、各部活とも盛り上がつていた時代でした。

 若い生徒諸君には、元気な高校時代に怠けたりせず、目いっぱいの努力をしておいて欲しいと願っています。はたと気が付いたら背後から「老いるショック」が来てますよ。