卒業生メッセージ

人間力の基礎を育てた三年間
昭和32年 工業化学科卒 山崎 礼子
青春三年間下工時代思出の記
昭和33年 機械科卒 田中 秀夫
許されない誤った英雄主義
昭和42年 機械科卒 土谷 康夫
昭和46年、下工教育が原点だった
昭和49年 電気科卒 重永 裕祥
私の高校時代
昭和54年 機械科卒 中村 明夫

許されない誤った英雄主義
~下工3年間を振り返れば~

昭和42年 機械科卒 土谷 康夫

 人生73 年間の今、高校時代(1964 年4 月~ 1967年3 月)の3 年間を素直に振り返ってみれば、僅か4.17%にしか過ぎないが、客観的に、豪胆不適な行動はいったい何だったんだろうかである。3年生の時、授業中、捕まえたスズメを教室内に放ち、授業をメチャクチャにしながら、誤った英雄主義で満足気であった。それが青春と笑い飛ばす人が居るかもしれないが、何の力もない一生徒が、現に言葉で先生に対するパワハラ以外何物でもなかった。

 1年生の1964 年は、東海道新幹線開通、米ケネディ大統領暗殺、そして何よりも東京オリンピックで、中間テスト最中の午後9 時頃、回転レシーブ東洋の魔女の、金メダルで日本中が湧いたのを昨日のように思い出す。因みに、監督だった大松博文氏は1921 年(大正10 年)2 月2 日生まれで、下工創立と同年、生誕100 年である。

 2年生の1965 年は、世の中、車・カラーテレビ・クーラーの3C を耳にしたが、我が家には無縁で世に言われている、いざなぎ景気の恩恵は他人事であった。秋の富士・箱根・東京の修学旅行は、下松を夜行で発ち富士・吉田に着いたのが午前3 時頃か。仮眠後、心弾ませて探した富士山は、周囲を見渡せど無情雨で、富士山はどこ・何処・・・であった。現、我が家の2階ベランダから雪化粧をした富士に、今日一日も良い日でと自然に手を合わせるのは、その時の無念の影響か。

 3年生の1966 年は、ビートルズの来日で日本中が湧いたようであるが、全く無関心だった。舟木一夫に夢中で、暇さえあれば彼の歌を所かわまず口ずさみ、周囲の仲間に迷惑ばかりかけていた。また、唯一の楽しみの秋の運動会は、45 周年記念式典で中止となり、文系主の行事に、どこまで協力参加したかの記憶は戻らない。

 そんな3 年間の成績は下降の一途をたどり、自慢ではないが3年生のある時最下位を経験した。ただ、中学2年から始めたハンドボール(HB)のGK 活動だけは夢中だったのが救いか。しかし結果は3 年間、常に下関中央工・岩国工に優勝を阻まれ、中国大会準優勝がベストであったが、後の後輩たちが残しているインターハイ・国体優勝に涙する次第である。

 3 年間でHB が訓えてくれたことは、やることがなかったのでただ夢中であったが、集中・夢中のお陰で、就職は日本鋼管(現JFE)に入社することが出来た。会社ではHB 活動は8 年間続いたが、成績は全日本実業団ベスト8 止まりで、会社に恩返しは出来なかった。その後は研究を続けながら、無謀にも国立静岡大で工学博士学位を得るために、高卒の一身であるにも関わらずご支援をいただいた会社には、ただただ感謝の一言である。無心夢中での心頭滅却(何事も集中すれば火もまた涼し)を、下工3 年間のHB が自然に教えてくれたと今しみじみと思う。

 ホタルが乱舞していた切戸川、まほろばの下松は今では…であるが、人生100 年時代、下工3 年間HB が訓えてくれた精神を大切に、これからはどんな小さなことでも誠実でありたい、で過ごせればである。