昭和46年、下工教育が原点だった
昭和49年 電気科卒 重永 裕祥
昭和49年 電気科卒 重永 裕祥
当時、私は、徳山市の動物園付近から、下工に通っていた。何故、市外の私が、下工に通ったかの理由は、中学校の先生に、「下工もあるぞ」と言われたからである。
昭和46 年、入学して驚いたのは、中学生活とは全く違う規律教育であった。これを「オリエンテーション」、「しつけの教育」とか呼んでいた。誤解を恐れずに言うと、常識的な全体主義的な教育(警察、消防、自衛隊、青少年更生施設かな)である。これに、「歴史と伝統。先輩に続け!」が加わる。この教育は、入学式4 月から7 月まで、特に徹底されていた。
特に、応援歌の練習は、その最たるものである。昼食を5 分で食べ、グラウンドに整列することで開始する。一番遅いヤツは制裁があるから、スゴイ勢いで、グラウンドに突進する。
校歌、下松市民歌、応援歌は、全部で10 曲程度あったと思う。それを、一糸乱れぬ秩序で歌うのである。歌とは別に、「立て、座れ」、「拍手の方法」、「フレーフレーの肩をゆする方法」を一緒に練習する。
この成果は、高校野球地区予選で、1回のみ発揮される。他校を徹底的に圧する応援であった。その中で、相手校が校歌を歌うと、こちらの歌を即座に止め、「気を付け」をする。素晴らしい教育である。
炎天下の応援練習中の思い出がある。隣の原君(寮生)が、「重永、そっちに倒れるから受け止めてくれ」と言う。仮病である。担架から、こちらに目で合図する。保健室にはクーラーがある。
通学風景も思い出す。私は、動物園、徳山駅(まだ、藤棚があった)、平田橋、徒歩で学校という経路で通っていた。その中で、徳山駅での先輩、先生への挨拶は圧巻であった。腰から30 度頭を下げ、非常識な大きな声で、「おはようございます」である。横の待合場所は、徳山商業高などである。「エッ、山工?ドコ?」という声が漏れる。
平田橋で降りて学校までの道程、先輩たちに出会う。先輩の見分けは「名札の色」だ。早く声を発する必要があるので、色の判断を間違う事がある。違う科の同級生に挨拶してしまった時には、両者「ニタリ」である。
帰りは、定時制の先輩に出会う。バイクに跨り、もう「オッサン」の風体である。「オマエ、今、挨拶したか?」と呼び止められた。相手は、ヘルメットを被っているので、聞こえる訳はない。しかし、先輩である。問答無用である。
ただ、帰りのバス、遠石の停留所から、徳山商業高の女学生が乗ってくる。大声での挨拶から解放される一瞬である。大声しか練習していないので、ついに話もした事はなかった。
恥ずかしい事だが、3 年間勉強はしなかった。同級生も概ねそうだったと思う。ただ、他校と違い、広域から生徒が通っていた。昔の「天下の下工」で、その分、比較優位な同級生もいたと思う。
私自身は社会に出て、無学への後悔をした。その中で、下工精神、先輩たちの活躍を見て、「がんばろう」という気持ちになった。
今、零細な会社を経営している。会社員時代、起業時には先輩諸氏に助けられた。お世話になった先輩の自宅を訪ねた時、化学の専門書がズラリと並んでいた。自分の努力不足を痛感し、今もその光景が頭に残る。